連載コラム『TOYOTAとNISSANの歴史をJコスト論で斬る』 第 1回目
[1] はじめに
2024年の暮れ,舞台の上でNISSAN・HONDA・MITSUBISHIの社長が並びHONDAの社長が仕切って,『三社の共同出資による持株会社・・・』という旨の記者会見が行われ,マスコミはこぞってこれを取り上げました.
思えば1999年,資金繰りに困ってルノーの軍門に降り,ルノーから派遣されたゴーンによって見事なV字回復を達成し,販売台数で世界第3位を狙うところまで成長し,これでNISSANは安泰だと世間では思っていたので,大いに驚いたのでした.
2024年5年連続世界一の売り上げを誇るTOYOTAが2023年3月決算で売上高約46兆円,営業利益5.3兆円に対して,NISSANは2024年度の予測として売上高12.7兆円,営業利益は1,500億円とされています.
時価総額で比べますと,TOYOTA 44兆円に対してNISSANは1.6兆円となっています.売上高で0.36倍 営業利益で0.02倍 時価総額で0.03倍と大きく差を付けられています.
日本の昭和の時代『技術のNISSAN』『販売のトヨタ』と競い合っていた両者が,何ゆえこのような差がついたのか誰もが疑問に思うところです.
当然マスコミでも取り上げ,さまざまな解説をなされていますが,その多くは,昔懐かしい『車名』をならべ,性能や客に好まれたかどうか…の話しになっています.
このような話は,興味ありますが日々職場の中で課題と取り組んでおられる現役の皆様には,何の役にも立たないことと思います.
筆者の経歴を紹介しますと,1967年院卒でトヨタ自動車入社に入社し,カローラを立ち上げの翌年の高岡工場に配属され,サニーを意識して改善をしていました.
1981年田原工場に新任課長として組立課を組織し,新型車ソアラとスープラを立ち上げ,管理職として高品質の組立ラインは如何に編成し,如何に運営すべきか実践を通して学んできました.此の組立ラインが1989年レクサスの生産を開始するのでした.
1993年には『トヨタ生産方式』の総本山『生産調査部』主査として,トヨタグループ各社の生産現場の改善指導にあたり,1995年物流管理部長として,世界165カ国に7兆円の商品をいかに速くお届けするかに邁進し,2000年からは社命で『ものつくり大学』で『トヨタ生産方式』を教える為に出向した教授第1号となりました.
大学では『Just In Time』の効果を管理会計として測定する手法を編み出し,これを『Jコスト論』と名付けました.2007年に(株)Jコスト研究所を立ち上げ,『Jコスト論』普及に努めています.
トヨタ在職中は,自動車工業会に入会し,見学会を通じて自動車生産のレベル向上させるプロジェクトがあり,NISSANとHONDAをターゲットにして毎年出席していました.同じ組立工場を見るということは,大変に強い刺激になり,改革の意欲を沸き立たせるものでした.NISSAN方式とHONDA方式があり,TOYOTA方式とはまったく違うアプローチをしておりました.今回は,この生産方式の違いにスポットをあて,ものづくりに関係する読者諸君の参考になればと,『TOYOTAとNISSANの歴史をJコスト論で斬る』というタイトルで連載して行きます.会社の名前をローマ字で書いた部分は,日本国内だけでなく,世界各地での工場現場や物流現場も含めた話であることを意味しています.
あらかじめお断りしておきますが,トヨタに関する記述は以下の3つになりますが,これらは筆者自身の体験であり,資料もあります.
- 社内で諸先輩から指導を受け実践してきたこと
- 直面した課題を解決する為に職場で造り上げた手法
- 経営Topからの方針とその実践
一方,NISSANに関する資料は,現役時代の工場見学に加えて,ものつくり大学教授になってから研究者として東大のMMRCでNISSANの参加者の発表やDiscussionから学んだ事を,文献を調べて補強したものです.
そのデータ量の違いから,本編をまとめるにあたっては,自動車業界の歴史的な変換点において,『トヨタは社内でどのような改革を進めて来たか』をメインに説明します.同時期のNISSANが,どのような改革を進めたかは,手元に資料がある限りは記載しますが,ない場合はパスするしかありません.
トヨタに関する事例でも,間違えた事例や,先輩たちが作り上げたものを後輩たちがぶち壊して行く事例なども紹介します.そのまずかった事例の方が,現場で毎日奮闘している読書君にとっては役立つものと思っております.
重点を入れてお話したいのは,
- 豊田佐吉が1924年G型自働織機を発明するまでの苦労話.この時トヨタの根本理念となる『目的は何だ』『自働化』が生まれたこと.いかに素晴らしい機織り機を作ったとしても,その性能は使う糸の品質にかかっている.良い糸を作る事と,自社の織機の性能を実証するために,豊田紡織と言う会社を,豊田自動織機製作所の横に建てたこと.これは現代,EVの能力は搭載する電池の品質にかかっているとして,自ら全固体電池製造の準備をしているのに通じている事.
- 作り上げたG型自動織機は,百年を使えると自慢していた.ということは稼ぎ頭を作らなければ会社が潰れるということだとして,ヨーロッパでの販売権を売り渡し,その資金を使って自動車部門への進出を図ったと言われている.
- 1937年は,米国でフォードを打ち負かしアルフレッド・スローンがGMを世界一の自動車メーカー育てあげたことを書いた『GMと共に』が出版された年である.当時の日本はGMとフォードのCKD生産が行われ,街にはすでに両者の乗用車が走り回っていた.その状況下で,『原価企画』という新しい会計手法を編み出し,いくらで作ればBIG3に打ち勝てるか計算したこと,それに加えて工場で働く従業員は,朝になると近郷近在から出勤してきて仕事をし,夕方になるとみんな帰って行く……工場で使う部品も,その日に使うものは朝までに準備し,夕方には使い切ってしまうように手配できれば,少ない資金で充分やっていける……このような部品の調達方法を彼は『Just In Time』と名付け,会社運営の基本としたのでした.
- 1937年,戦前の最後の自動車メーカーとして認可を受け,軍政下に置かれる
- 敗戦後,駐留軍からの許可を得て自動車製造業に復帰するも,強度のインフレとその対応策としての金融引き締め(ドッジライン)によって資金繰りに困り倒産しかかる.
- 人員削減を飲み,豊田喜一郎が引責辞任することで銀行から融資を受け,親会社である豊田自動織機社長石田退三がトヨタ社長兼務することで再出発を図った.
- 石田退三の基本政策は,『銀行に頼らない経営』で,徹底したケチ作戦で金を貯め,豊田英二副社長が将来のために思い切って投資するというものであった
- 石田は豊田式自働織機を使って多台持ちを実践していた豊田紡織から抜擢した人物を機械工場長にして,改革をさせた.その名を大野耐一という
- 大野耐一の本社機械工場でやった改革の第一歩は,職種別の職長を頂点としたHierarchyの破壊にあった.21世紀の今日でも,このHierarchyが温存されていて業績を悪化させている会社がある
- 『鋳造部』『鍛造部』『機械部』『車体部』『総組立部』『工務部』と『検査部』からなる本社工場長になって更に改革は進む
- Supplier間でも有志が集まって『自主研修会』が始まる
- 1959年本社とほぼ同じ規模の乗用車専門工場『元町工場』を建設,ほぼ借金を返済した状態だったので,銀行の意向に左右されずトヨタとして独断したとされます.日産の追浜工場稼働開始は1961年,なので2年乗り遅れたと見えます
- 1960年代 市場では,熾烈なBC戦争が始まる.トヨタ本体,協力工場は『かんばんによるPULL生産へ1970年』
- 1965年大衆車専用のエンジン工場・上郷工場建設
- 1966年6月ニッサンサニー発売開始
- 1966年11月大衆車専門の高岡工場生産開始,トヨタカローラ発売
- 1969年2代目カローラの生産準備からコンカレントエンジニアリング開始
- 1970年オールトヨタで『かんばん』によるPULL生産方式確立
- 1970年カリーナとセリカの堤工場立ち上げ.インパネのサブライン化が.大野耐一の逆鱗に触れる
- オイルショック時の『カローラ原価改善活動』と横展
- 最新鋭設備を取り入れた田原第2組立工場を建設.@ドアレス工法,A幅広コンベア,Bチルト工程,これらを使って『ワゴン台車方式』開発
- 1986年『組立工程管理システム』プロトタイプ完成
……等を予定しています.
これらの,読者の皆様の読者の皆様の日常に直結したお話はきっと役に立つと思います.
更に,経営トップから経営企画に関係する皆様に申し上げたいことがあります.
タイトルに『Jコスト論から斬る』と名付けた理由に繋がる事ですが,大多数の会社が,営業利益の向上を目標に挙げ仕事をしていると思いますが,1950年資金が廻らず倒産しかかったトヨタは,銀行に融資を断られ,『銀行は晴れた日に傘を貸し,土砂降りになると傘を引き上げる』と石田退三はその悔しさを表現し,トヨタ立て直しの基本方針を『無借金経営』に決めました.
配下の花井正八副社長が財布の紐をしっかり握り,大野耐一が工場内の『仕掛在庫』を徹底的に絞り,分離したトヨタ自販 神谷正太郎からの完全受注生産という形を取り,完成車は即自販籍とし,完成品在庫ゼロとしました.これによって浮いた運転資金は借金返済に充て,支払利息を社内留保に変えて行く方針の建てたのでした.
この方針のもとに,大野耐一が確立したのが『トヨタ生産方式』だったのです.
営業利益しか眼中になかった当時の経済学者には,この『トヨタ生産方式』の真の狙いがわからず,今日に至っております.
筆者が生み出したトヨタ生産方式を会計的に説明する『Jコスト論』を使って本文の中で詳しく説明して行きます.ご期待ください.
このようにして稼ぎ出した社内留保を使って,技術・生産担当の豊田英二副社長が1955年頃から,迫り来る日本のモータリゼーションを睨んで,クラウン・コロナ・カローラ等の新車開発と,元町・上郷・高岡と矢継ぎ早に工場建設を行いました.
1970年はセリカ・カリーナ用の堤工場を建設しましたが,この時にオールトヨタの生産管理体制を『PULL型生産方式』に変換し終えた年でもありました.
このトヨタの『PULL生産方式』は通称『かんばん方式』と呼ばれていますが,『組立ラインで使った部品』は『かんばん』と言うツールでSupplierの完成部品置き場からの出荷を指示し,出荷したという情報が次々とSupplier内のShopを遡っていき,Supplierの材料調達まで届きます.
自動車1台を構成する部品数は俗に十万点と言われていますが,その全ての製造工程の末端まで『かんばんを使ったPULL生産』が行き渡った事で,膨大な『管理工数と棚卸資産の削減』ができたわけです.
このようにトヨタの『Just In Time』改善を『Jコスト論』で解説します.
1999年以降,NISSANは『NPW(NISSAN方式)』を謳い,『限りないお客様への動機』というキャッチコピーの活動を展開しました.これは一見するとトヨタの『Just In Time』に対応した活動と思いがちですがた,実は『PUSH型生産』のままだったのです.これが今日の苦境をもたらしたのかもしれません.今年度はこういった点をじっくりと皆様と一緒に考えていきたいと思います.
そしてこのホームページは毎月第3月曜日を目途に更新を予定しています.どうぞご期待下さい.
2025年1月18日
(株)Jコスト研究所 代表 田中正知