連載コラム『TOYOTAとNISSANの歴史をJコスト論で斬る』目次はこちら
- 2025年 8月 2日公開
- 第 4回目 豐田喜一郎が『トヨタ自動車』を創業する
- 2025年 3月31日公開
- 第 3回目 豐田喜一郎が『トヨタ自動車』を創業する
- 2025年 2月24日公開
- 第 2回目 豊田佐吉が『豐田式G型自働織機』を完成させる
- 2025年 1月18日公開
- 第 1回目 はじめに
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16回目まで掲載し中断中、25年3月から再開を予定しています。
お楽しみにお待ちください。
地球温暖化が叫ばれて久しいのですが,今年の暑さは異常に思いました.『AI』に尋ねてみると,今年の8月名古屋の日中最高気温は,体温である36度を超えた日が20日余あり,尻上がりに熱くなり,月末には40度を超えました.
9月になっても相変わらずの高温が続いておりますが,皆様いかがお過ごしでしょうか…….
まもなく84歳を迎える筆者には,この暑さ堪えました.できるだけ外出は避け,エアコンの効いた室内に閉じこもって過ごしました.
私にとって8月というのは,『少年期の南信州の夏休み』と『太平洋戦争の終わった月』という二つの意味で,特別な月です.
今回は季節のご挨拶として,『8月に対する私の思い』を申し述べたいと思います.
長丁場になりますので,以下のような章立てでお話しします.
私の少年時代を過ごした南信州,伊那谷の東側の喬木村では,標高約500mという事もあり,日差しはきついものの,空気は乾燥しており,木陰では涼しく過ごせました.この気候が,白桃・梨・林檎という3種類の果物が獲れるという奇跡をもたらしたのでした.
7月の下旬の獲りたての白桃は,バリバリとかじる事が出来,種はポロリと取れます.この状態の桃が筆者は大好きでした.この桃も8月になると都会の店頭の白桃のように果肉が柔らかになり,果汁をしたたらせながら食べる状態になってしまいます.皆様も是非一度はバリバリとかじる桃のおいしさを味わって頂きたく思います.
田植えと稲刈りの季節に『農繁休暇』のある田舎の夏休みは,8月1日から盆明けの16日まででした.夏休みは数km先にある渓谷の滝壺で泳ぐのが楽しみでした.その川には伝説があり,『七夕以降に泳ぐと流される』と言われていました.反抗期だった私は8月10日くらいに泳ぎに行きましたが,いつもの仲間はおらず,川の水が冷たく感じました.この冷たさが事故を起こしやすいという警告だと知りました.
恒例で8月15日には校庭で盆踊りが行われ,浴衣が,夜風が心地よかった記憶があります.
そしてお盆を過ぎると夜間はぐっと涼しくなり,掛け布団を着て寝られるようになります.南信州の夏は短く,メリハリのある日々でした.
大学進学してから今日まで,ほぼ名古屋で生活していますが,名古屋の夏は長く蒸し暑い毎日です.それ故,少年期の信州の夏が心に残っているのです.
今年は終戦80年目に当たりますから,さぞかし新しい視点からの取り組みがあるかと期待しておりましたが,全く通年通りで,『戦争は悲惨だ!』『二度と起こしてはならない!』といういつもの論調に終わりました.
話は飛びますが,最近インターネットが便利になりました.特に『Copilot』や『Gemini』等の『AI』が流行っています.
筆者も使い始めて,その能力に驚いております.何か質問をすると,ネットにある膨大な資料から話をまとめて報告してくれます.
気になっている問題を直球で質問すると,その回答はズバッと『的を射貫いた』回答が多く『やっぱり!』『えっ!』と言った感想が湧きだし,筆者は今ハマっています.
現実の社会と整合させるために,時々刻々『AIの環境』は変化している様子ですが,今のところ,政府の意向だとか,世の中の流行りだとか,日本独特の忖度などを感じられないズバッとした回答がまだ得られるようです.ぜひ皆さまも,官憲の規制が掛からぬ今のうちにお試しをお薦めします.
以下,いつもと違った角度から,太平洋戦争前後の歴史を眺めてみましょう.
この問いには,恐るべき回答がありました.1945年2月クリミア半島で開かれた米国ルーズベルト大統領・英国チャーチル首相・ソ連スターリン書記長の『ヤルタ会談』で,『ドイツ降伏の3カ月後にソ連は日ソ不可侵条約を破って対日戦線に参加する.その見返りに,樺太南部と千島列島をソ連に与える……』という密約が交わされていたのでした.
一方アインシュタインなどドイツ追われたユダヤ系の物理学者は,ナチスより先に『原子爆弾』を作らないと世界はナチスに占領されるという脅迫観念から,大統領に直訴し,マンハッタン計画の名のもとで密かに原爆を開発していました.
1945年7月16日原爆実験『トリニティー実験』成功の報告がトルーマン大統領に届きます.
ドイツは5月7日無条件降伏していましたから,ヤルタの密約でソ連が8月7日以降,日ソ不可侵条約を破棄して対日戦線に参加することになっています.東西に分離させ東側を占領するなど,ドイツの戦後処理ではソ連に好き放題にやられていることを考えると,米国の自力で勝利したという形にする必要があり,ギリギリの8月6日に原爆投下に踏み切ったとされています.
もしもこの時原爆がなかったら,8月15日の日本の無条件降伏が遅れ,ソ連軍が北海道に上陸し,北海道が今の朝鮮半島のように分割された恐れがありました.
詳しくは以下のYouTubeを参照して下さい.
トリニティ実験成功を聞かされたトルーマンの回想 #原爆 #原爆投下 #広島 #長崎 #日本 #大東亜戦争 #戦後80年 #トルーマン #米国
ここでは,原子爆弾に関する展示が行われていて,第二次世界大戦中に開発された原爆の模型や,マンハッタン計画に関する資料,当時の写真や映像資料などが展示されており,原爆開発の経緯やその歴史的背景について学ぶことができます.また,実際に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の実機展示もありました.
『原爆投下によって戦争を早く終わらせることができ,米兵の命を救った……』という説明が成されていました.
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流氷で有名なオホーツク海は,シベリアから流れ込む栄養豊富な淡水による表層部の淡い塩分と,深層部の濃い塩分の2層に分かれていて,漁業資源が豊富とされている,また,樺太周辺では,石油・天然ガス資源が豊富であるとされています.
北海道を分割して東北部をロシア領とすれば,オホーツク海はロシアの内海とでき,核を搭載した原子力潜水艦を配置すれば,絶対に攻撃されない原発の保管庫になるわけで,軍事的優位を確保出来ます.
先に述べたヤルタの密約でスターリンが狙った本心は,北海道割譲にあったと思われます.
現に8月15日昭和天皇のポツダム宣言受諾の玉音放送をもって,太平洋戦争は『撃ち方やめ!』の状態になったが,ソ連軍だけは満州及びオホーツク海方面で,降伏の調印式(9月2日)までは戦争中であるとして進軍を続けました.
これほどまで努力して手に入れた千島列島!その軍事的価値を見れば,ソ連には『北方四島の返還』などはやるつもりは全くなかったと思います.
ロシア民謡・ロシア文学・バレエ・音楽はすばらしいのですが,白人が他民族を支配している複合国家で,恐ろしい反面を持っている事を忘れてはなりません.
日露戦争は,当時の白人に支配されていた有色人種の植民地にとって,自分たちでも独立ができそうだという希望を与えました.
第一次世界大戦後,日本はなんと国際連盟の常任理事国になりました.
黄色人種である日本は常任理事国として『人種差別反対の大原則』を国際連盟に持ち込もうとしましたが,実現できませんでした.
アジアでは,日本とタイを除いてすべての国が欧米の植民地となっていました.具体的には,インド(英),パキスタン(英),ミャンマー(英),マレーシア(英),ベトナム(仏),ラオス(仏),カンボジア(仏),ブルネイ(英),マレーシア(英),インドネシア(蘭),フィリピン(米),等々
100年前,台湾と韓国とは日本の植民地だったという人が居ますが,それは間違いで,皆同じ『日本臣民』だったのでした.戸籍上は日本名で登録され,同じ義務教育を受け,同じ徴兵制度でした.欧米の植民地政策とは全く異なっていました.社会インフラ,基礎教育が充実していたので,終戦後,日本は急成長しましたが,台湾と韓国は同じように急成長を遂げ,部分的には日本を凌駕する部門も出てきました.
次に急成長したのが,独立を通した『タイ王国』です.先に述べた欧米の植民地だった各国の経済発展の進度を見れば,台湾・韓国との差が分かると思います.これが,台湾・韓国がいわゆる『植民地』でなかったことの証拠です.
日本から見た太平洋戦争のもう一つの目的は,欧米先進国の植民地からの民族解放を旗印に,八紘一宇の精神の下でアジア国家を作ることでした.戦争前半は破竹の勢いで進みましたが,後半になると,補給網が断たれ,民家から食料を調達(強奪)するようになり,民心が離れてしまいました.
自衛隊が災害援助に出かけるときは,退院の食料は自己調達しています.もし自衛隊員が食料が切れたと言って民間人の食糧を横取りすればどうなるでしょうか…….そんな状態が日本軍の先々で起きたようなのです.さらにまずいことは,日本軍は負けて引き上げていきますと,戻ってきた宗主国は,人民が日本につかないよう徹底的に『日本は凶暴な侵略者で,宗主国がその侵略から植民地住民を守った』のだという思想教育を行ないました.
『戦場にかける橋』で有名なタイとミャンマーを繋ぐ鉄道は,映画では鉄橋の部分が爆破されることになっていますが,植民地ではなかったタイ側は,戦争後修復され今も使われています.ミャンマー側は,イギリス政府の意向により破壊されたままになっていて,その廃線の脇に『日本兵が銃剣でおどして現地人に鉄道敷設されている像』が建っています.
このように日本兵が引き揚げた後,独立運動が再開しないように宗主国が必死になって日本軍の植民地解放の証拠を隠滅したのでした.
立憲君主として,民の意を汲むことに重きを成してきたので軍部の暴走を止めることができませんでした.
史実によれば,張作霖の死を巡って田中義一首相を厳しく叱責したら,間もなく急死した(1929年9月).『天皇に叱られ切腹した』と言う噂も立ったと言います.この事件により昭和天皇は,軍部の暴走を止める力の限界を知るのでした.
しかし無条件降伏(ポツダム宣言)を受諾するか否かの場面では,軍の反対論を押しのけ,拘禁・処刑という厳しい処遇を覚悟の上で,受諾を決定したのは昭和天皇だったとされています.
参考までに
【4Kカラー】ムッソリーニの最期 - The Execution of Benito Mussolini in Color
米国の太平洋戦略を第三者の立場で見直すと,以下の様な見方が出来ます.
お時間がありましたら,諸兄が自らネットで,時には『AI』を使って調べ上げ,諸兄の独自の歴史観を確立することをお薦めします.
1960年アロー戦争を終結するための北京条約が結ばれロシアはその仲介役を作りましたその功績を名目にロシアは新から沿海州を獲得し,ロシアは念願の不凍港ウラジオストクを軍港として整備しました.
考えても次に狙うのは韓国です.その韓国は清朝の属国となっており,ロシアの脅しにかかって韓国を手放すことも考えられます.
それで日本は韓国を独立ことにして独自に日本と国交を樹立させ,ロシアの更なる南下の防波堤にしたいと考えました.
下関条約では,@朝鮮半島の独立 A台湾割譲 B遼東半島領有 C賠償金を決めましたが,ロシアはドイツ・フランスと組んでBを中止させた(3国干渉).
そのあと遼東半島南部(旅順)はロシアが租借し砲台と軍港を建設した.
アメリカの膨脹主義が止まらずカリブ海のキューバ・ドミニカ当の領有をめぐってスペインと戦争を起こし,スペインに勝利したため大航海時代からのスペインの派遣をアメリカが引き継ぐ形になった.太平洋で言えばグアム・フィリピン諸島までが米国の支配下になった.
この戦争は,英米に乗せられてやってしまった戦争という面もあります.ロシアが朝鮮から日本への侵攻を狙っていると忠告し,軍艦を売付け,いざというときはバルチック艦隊にスエズ運河を使わせないという日英同盟を結び,裏からけしかけたのが英国でした.
戦争が長引き,日本の国力の限界を見極め和平工作に乗り出したのが米国でした.結果として,軍艦から弾薬までを売り込んで利益を稼ぎ,自らは一匹の血を流さずロシアを後方に追いやった,英国と,米国の外交手腕はしたたかでした.
日露戦争は全世界に大きな影響を与えました.
清が自分の属国とみなしていた韓国を独立させ,門戸開放とロシアの防波堤にしたい日本の意見の不一致で日清戦争は起き,韓国を独立させたが,列強の間でふらふらとしてラチがあかないので,日本に併合した.
共に
実態は軍閥割拠の時代へ……
三国同盟(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国)と三国協商(ロシア・イギリス・フランス)の戦争
日本は日英同盟の関係で,三国協商側に付き,中国のドイツ領に出兵
当初,米国は中立の立場をとり,双方に武器弾薬を見つけて巨万の利を得た.ドイツの潜水艦攻撃を受けて,1917年三国協商側に加担しました.
1917年のロシア革命によって,ロシアは戦争から離脱しました.
列強がヨーロッパ戦線に汲々としている間,日本は日英同盟に従い英国側に加担し.1919年には亜敵国ドイツ権益の山東省や,ドイツ領南洋諸島を占領しました.その結果,太平洋は日米の覇権争いの舞台となりました.
下記のように勢力を急拡大させていきました.
1865年 | 南北戦争終結 この時点から米国は巨大な国家として君臨 ⇒日本の明治維新に相当する |
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1867年 | アラスカとアリューシャン列島をロシアから買収 |
1867年 | ミッドウエー諸島を発見,無人島だったので領有 |
1898年 | ハワイ王国を米国の準州として併合 |
1898年 | 米西戦争に勝利し,フィリピン・グアムはカリブ海諸島と共にスペインから割譲,海洋国家スペインの利権を強奪した |
1899年 | サモア諸島東部を三国条約で獲得 |
同時期日本も勢力を拡大していきました.
1868年 | 明治維新 近代化への第一歩 <米1965年南北戦争終結> |
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1895年 | 台湾割譲 |
1910年 | 韓国併合 |
1919年 | 第1次世界大戦の戦勝国として南洋諸島委託統治 |
列強(スペイン・ポルトガル・英・仏・蘭)に遅れて急成長し,スペインを倒して覇者として急成長した米国にとって,日本がどのように映ったか!は想像できる.
⇒第一次世界大戦後は米国は英国に謀り,日本をおだてて,ロシアの南下政策の盾にする日英同盟を破棄させ,新たに『ワシントン会議』で日本を縛る政策を打ち出してきた
ロシア帝国が1917年ロシア革命を経て,1922年ソビエト社会主義連邦に変身し,世界で初めての『共産主義政権国家』が誕生したのでした.
ソ連はこの唯一の共産主義の自国を守る為,各国に社会主義の種を蒔き,革命を起こす人材を育成し,『労働者階級の解放』のために各国へ拡散させた.
ドイツ帝国⇒ドイツ共和国+ポーランドへ返還
オーストリア=ハンガリー帝国⇒オーストリア共和国+チェコソロバキア+ハンガリー+ユーゴスラビア
オスマン帝国⇒トルコ共和国+シリア+レバノン+パレスチナ
大戦後のヨーロッパはヴェルサイユ体制という
(ヨーロッパの帝国は解体され,大日本帝国のみが残った.)
1905年日本がバルチック艦隊を壊滅させ,白人の巨大帝国ロシアに勝利したことが,列強の支配に苦しんでいた各植民地の民族活動家を強く刺激した.そして日本で学んだ孫文を始め中国の志士たちが1911年に『辛亥革命』を起こし,清朝を倒し,『中華民国』を建国します.その影響でますます『植民地からの独立』運動が盛んになり,各国の志士たちの一部が日本に集まってきました.
AIの『Gemini』に問うと,以下の回答を得られました.
(1) 国際連盟誕生の経緯,その組織は,その成果は……
国際連盟は,第一次世界大戦の惨禍を二度と繰り返さないという強い願いから誕生した,史上初の本格的な国際平和維持機関です.その設立には,アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が提唱した「十四か条の平和原則」が大きな影響を与えました.
誕生の経緯
国際連盟は,第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約に基づいて,1920年にスイスのジュネーヴに本部を置いて設立されました.しかし,提唱国であるアメリカは,議会の孤立主義的な反対により加盟しませんでした.また,敗戦国であるドイツや革命後のソ連も当初は参加が認められませんでした.
組織
国際連盟は主に以下の3つの機関で構成されていました.
総会: すべての加盟国が参加し,一国一票の原則で運営されました.重要な決定は全会一致が原則でした.
理事会: 常任理事国と非常任理事国で構成され,国際紛争の解決などを担いました.常任理事国は,当初は日本,イギリス,フランス,イタリアの4か国でした.
事務局: 連盟の日常業務を担う常設の事務機関です.事務次長には,日本の新渡戸稲造が就任し,国際的な信頼を得ました.
また,関連機関として常設国際司法裁判所や**国際労働機関(ILO)**も設置されました.
成果と限界
国際連盟は,いくつかの地域紛争を解決するなど一定の成果を上げましたが,その有効性には限界がありました.
成果:
地域的な紛争の仲裁(スウェーデンとフィンランド間のオーランド諸島問題など)
国際協力の推進(経済,社会,文化,人道分野)
限界:
大国の不参加: アメリカが不参加だったことは,連盟の権威を著しく低下させました.
全会一致の原則: 重要な決定に全会一致を求めるため,迅速な対応が困難でした.
軍事制裁の欠如: 紛争を解決するための有効な軍事力がなく,経済制裁も強制力が弱かったため,大国の侵略行為を防ぐことができませんでした.
これらの限界は,1930年代の満州事変における日本の行動や,イタリアのエチオピア侵攻など,列強の侵略行為を阻止できなかったことで露呈しました.そして,第二次世界大戦の勃発によってその機能は完全に停止し,戦後に**国際連合(UN)**へと引き継がれ,1946年に正式に解散しました.
(2) 国際連盟における日本の立ち位置と活躍
日本は常任理事国として 人種差別撤退宣言を提案した
国際連盟で常任理事国として人種差別撤退宣言を発するように動いた
日本の人種差別撤廃提案は,国際連盟の設立を議論していた1919年のパリ講和会議で,全権代表の牧野伸顕が中心となり行われました.これは,国際連盟規約に「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けない」という条項を盛り込もうとするものでした.
提案の背景
第一次世界大戦で勝利した日本は,パリ講和会議で主要戦勝国の一員として参加しました.当時,日本は欧米列強と肩を並べる存在として国際的な地位を確立しつつありましたが,一方でアメリカやカナダなどでは日本人移民に対する排斥問題が深刻化していました.この提案は,こうした差別をなくし,国際社会での日本の地位を確固たるものにしようとするものでした.
提案の経過と結果
各国の反応: 提案は多くの国から支持を得ましたが,特にアメリカとイギリスが強く反対しました.アメリカは国内に深刻な人種問題を抱えており,イギリスは植民地での支配に影響が出ることを懸念したためです.
最終的な結果: 提案は賛成多数で採択されましたが,議長を務めたアメリカのウィルソン大統領が「全会一致でないため不成立」と一方的に宣言し,最終的に国際連盟規約への記載は見送られました.
この提案は実現しませんでしたが,国際社会において人種平等を明確に主張した最初の試みとして,歴史的に重要な意義を持ちました.
第1次世界大戦は,戦場にならなかった米国が,戦場になってしまい武器弾薬を作れなくなった欧州に向けて輸出することで莫大な利益を得ました.その有り余る資金が,時代の先端である自動車,航空機……等に投資され,それが新たな富および,米国は未曾有のこうけいきが続き,世界経済の中心が欧州からアメリカへ移った時でもありました.
米国と同様に戦場にならなかった日本も戦争特需でわき,好景気に恵まれました.
大正デモクラシーやモダンガールはこの頃の事でした.
1929年10月,ニューヨーク証券取引所の株価大暴落は,瞬く間に全世界に広がり『世界大恐慌』となりました.
生産設備が拡大され,『もの』は有り余っているのに買ってくれる人がいない!
買ってくれなければ,お金が入らない!
お金が入らなければ給料は払えない!
給料がもらえなければものが買えない!
この負の連鎖が始まってしまったのでした.
短絡的に考えますとこの大不況を打ち上がるには,軍備拡張し軍需産業を興す!
他国に侵入し新しい市場を開拓する……というのが誰もが考える事です.
ドイツはナチスが台頭し,34年ヒットラーが総統に,再軍備推進
イタリアはファシスタ党結成,エチオピアを併合
日本は軍部の台頭,満州国建設
その結末は,冒頭部分でご紹介したYouTubeの動画のとおりです.
アメリカにおいては1933年に当選したルーズベルト大統領が展開したニューディール政策によって,大恐慌の解決が図られたどうされていますが,その真偽の程を『Gemini』に確かめますと,以下の回答を得ました.
ニューディール政策は,アメリカ経済を完全に回復させたわけではなく,第二次世界大戦による特需によって最終的に恐慌から脱出したという見方が一般的です.しかし,政府の役割を拡大させ,資本主義のあり方を大きく変革したという点で,歴史的に非常に重要な意味を持っています…….
この回答に力を得て,今までにこの部分を獲得した『太平洋戦争の隠れた面』をご紹介したいと思います.読者諸兄におかれましては,ご自身で再度お確かめください.
ルーズベルト大統領は1941年の太平洋における行き詰った状況を打開するためには,米国本国から遠く離れた西太平洋で,日本を叩くしかないと決意した.
日本の囲むABCD包囲網を作り,石油・アルミ・ゴム等の資源を枯渇させるそうすれば,宣戦布告してくるだろう.
日本が攻めてくるとすれば真珠湾であろう.古くて使い物にならない軍艦を真珠湾に集めておき,湾の水深が浅いので,必要な艦船だけ回収して修理すればよい.貴重な空母と航空機は洋上で待機させておけば良い.
奇襲を受けたとなれば米国世論は一丸となって打倒日本になり,多額の予算が付き,軍備増強と,不況からの脱出ができる…….
日本軍はまんまとこの罠にはまりました.しかも以下のようなおまけ付きで……
直前に宣戦布告してからの奇襲攻撃の予定が,暗号解読に時間が掛かり,大使館から米国政府への通達が,攻撃の後になってしまった.
その結果『日本は卑怯者』というレッテルを米国政府に付けられる,米国民は一丸となって怒りに震える結果になった.
第2,第3波の攻撃で,燃料タンク,武器庫など全てが破壊される覚悟でいたが港内に空母がいないことで,日本空母艦隊は米国の空襲を恐れ第1波攻撃だけで引き返した.
攻撃を受けた後の真珠湾では,一番古い『戦艦アリゾナ』を日本軍の真珠湾奇襲における記念碑として保存した.
YouTubeはアリゾナ記念館(USS Arizona Memorial): 真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの上に建てられた,最も有名な記念館です.犠牲となった多くの乗組員が今も船体の中に眠っており,慰霊の場所となっています.ボートでしか行くことができず,事前予約が必要です.沈没した戦艦の甲板を見下ろすことができます.
沈没した最新鋭の戦艦ミズーリは,直ちに引き揚げ,修理して前線復帰させ,太平洋戦線で大活躍し,1945年9月2日の日本の連合軍に対する無条件降伏の調印は,この戦艦ミズーリ艦上で重光外務大臣にやらせたのでした.
ミズーリ記念館
東京裁判
裁判の中味は下記YouTubeを参照
裁判の開始が4月29日 ……………………(昭和天皇の誕生日)
A級戦犯の処刑日が12月23日…………(上皇陛下の誕生日)
偶然の一致???
パール判事はインドから馳せ参じた『東京裁判15人の判事』の一人.
ただひとり無罪を主張した人である.
訳者 田中正明は,筆者の叔父です.
筆者の8月への思いというタイトルで書き始めましたが次々とこみ上げてくるものがありまして思わずなくなってしまいました.
読者諸兄も太平洋戦争について少しでも多くのことを確認していただき,来年の8月はもっと深い思いを持って終戦記念日を迎えていただきたいと思います.
2025年9月13日
(株)Jコスト研究所 代表 田中正知